略歴

岐阜県生まれ、愛知県育ち、現在は東京都大田区で妻と2人で住んでいる
1990年3月
名古屋大学理学部数学科卒業

数学が得意だったので大学に入学するも、フラクタルや人工知能に目移りしてその勉強ばかりしていた。
3年終了時にアルバイトや株の売買益を元に1年間世界放浪。香港から入って中国南部、チベット、ネパール、インド、パキスタン、(イラン・イラク戦争中の)イラン、トルコ、シリア、ヨルダン、イスラエル、エジプトと駆け抜けた。ギリシャ、(ベルリンの壁崩壊前の)ユーゴスラビア、ハンガリーと行ったところで飽きてしまい、アメリカへは向かわずシベリア鉄道を経由して、中国、タイによって帰国した。

旅行するきっかけは、数学の勉強が嫌になったのと、この前に中国の雲南省と新疆ウィグル自治区へ2ヶ月行ったときの感動の追体験をしたかったからです。インド・中国で麻薬に沈没している人、イランやシリアの恐怖政治をしている国、タイで売春している人と接したり、いろいろな経験をしたのは、人生を深く考えることができました。

人生の体験の半分はこれらの旅行で終わったと感じています。それ以来、わくわくすることあまり感じられなくなりました。結婚生活はハプニングが起きていろいろあるけれども。
1990年6月
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)入社
人工知能に関わる仕事があると聞いて入社したが、まったくそのような仕事がなくてやる気を無くしてしまった。シカゴへ5回も研修させていただき、帰途にケイマンやスペイン、アメリカ各地を旅行できたのは良い思い出。

旅行の強烈な経験があったので対人関係に悩み、社会人生活に合いませんでした。
一生を人工知能の研究に捧げようと思い、大学院に復学することを決意した。
1993年8月-1990年3月
同社休職。大学院入学の勉強準備をする。
同年3月、休職後に旅行で訪れたフィリピンで知り合った女性と運命的な出会いをして結婚
1994年4月-1996年3月
名古屋大学人間情報学研究科認知情報論講座(修士課程)
人工知能・認知科学を研究(パズルを解く過程をエキスパートシステムで表現)したが、在学中に出産があり、経済的理由で研究継続を断念した。

大学院在学中、奨学金と学費免除で生活できたのは、関係者皆様に感謝。
また研究者になると言って入学許可や指導をしてくれた先生方に未だに申し訳なく思う。
東京での激務では結婚生活の維持は難しいと思い、卒業時にアンダーセンコンサルティング退社
1996年6月-2000年9月
日本アイ・ビー・エム東海情報ソリューション入社
アルバイトで知り合った人からの紹介。仕事内容はLotus Notesの講師と業務支援だった。
安定的な仕事でホワイトな職場だった。
仕事内容に飽きてしまい、ベンチャー企業に入ることにした。
退職前に、報酬が不満ならば親会社への移籍という条件も提示されたが、結局退社。
2000年10月-2000年12月
デジタルフォレスト入社
Lotus Notesを中心にコンサルティングを行う仕事を始める。個人的なつながりで仕事を得て、会社とは全く接点が持てなかったので、12月で退社することとなった。入社時に会社の株400万円ほども購入していたが、退職時に同額で売却できてよかった。会社には利益で貢献したと思う。
この頃から、お客様が東京にあることが多く、東京と名古屋を行ったり来たりする。
2001年1月-2004年1月
青山プランニングアーツ入社
コンサルティング先から誘われてベンチャー企業にCTOとして入社。

動画プレゼンテーションソフトのマネージャーとして働く。会社上場を目指していたが資金ショートで失敗。リストラ時も残って再建に努める。当初はWindowsでJavaアプリを使って、CDやネット配布でコンテンツ配布の仕組みをつくっていた。JavaアプリからJavaScriptに変えて作り直した。その後、関西テレビや民主党の選挙のときの民主党TVを応援することになった。メディアのいろいろな経験をつめたのは良い思い出。

家族が愛知県に住んでいたので、週日は東京の会社に泊まり、週末は愛知県に帰るという生活になる。
2004年2月
家族の事情で名古屋で生活することになり、退職。
転職せずに、とりあえず青色申告の個人事業主で活動を探る。

「起業の学校」へ行ったり不労所得を目指したり小さな仕事をもらったりいろいろ試した。
株の自動売買ソフトやスクレイピングのソフトを作った。

Perl, Python, Rubyのどの言語で開発しようか迷い、日本人のつくったRubyが日本語処理しやすいことでRubyをつかうことになった。その後、WebサイトもRuby on Railsでつくることになった。
大阪でネットチャンネルKYOでYouTuberみたいなこともした。

名古屋市の起業支援に応募して、2006年4月より月4万円強でオフィスを借り始めた。
2007年4月-11月
IPAの未踏事業にスクレイピングをつかってWebサイトの情報を取得してデータのやり取りするソフトが採択された。ほぼ1年分の年収をいただき、開発に専念した。

もともとスクレイピングする基本技術を作っていた。
あとは大学院時代に学んだエキスパートシステムの仕組みをつかって、Web解析して取得するべきデータがどれなのかを自動的に解析したり補正する仕組みを用意するものだった。目標は天才プログラマーという称号をもらってそれをきっかけに事業化することだった。今だったら機械学習を使うだろう。

結果は開発が最後までできなくて失敗に終わった。採択というチャンスをもらったにも関わらず失敗に終わったのは申し訳ない。

スタート時には可能かどうかはわからない大きな目標が未踏である。達成可能が明確ならば未踏とは言えない。その微妙なところを9ヶ月という短期間で個人で挑戦する。

失敗した原因は、家族の問題、技術力の不足、単独開発の不安定なんだろうと思う。
良い経験をさせてもらったことに感謝する。

この失敗が人工知能研究の最後のチャンスであると思っていただけに、自暴自棄になり後遺症が大きかった。

2008年3月に自分の事業を進めることを辞め、借りていた事務所も引き払った。
2008年4月-12月
個人事業主として、メタプロトコルという会社で働く。
会社の仕事を分けてもらって続けていたが、自分には合わなかった。関係者には申し訳なく思う。
2009年1月-2009年9月
加藤総合研究所の加藤さんの事務所に席を置きながら、個人事業主を継続する。
加藤さんから小さな仕事をもらいながら、いろいろな道を探っていた。
2009年10月-2014年9月
前に務めていた青山プランニングアーツから仕事を手伝ってほしいという知らせを受けて、再び東京で仕事をすることになる。事業拡大失敗で倒産しそうになったあとの後始末をしてほしいということであった。

名古屋での仕事には肌にあわないと思ったので、東京にいく機会ができたので始めた。
夜行バスとカプセルホテルで東京を往復していた。

ストリーミングサーバーやWebサイトの見直しをして運用コストを下げ、PHPで作られていたものをRuby on Railsに作り直して運用しやすくした。

その後、Titanium MobileというJavaScriptでiOSアプリをつくれるフレームワークを使って、動画プレゼンソフトを作り直した。ベースは2000年ごろにあったものだが、動画を取り巻く状況は時代の変遷を経ているので、時代とともに異なる。アプリと動画を配信するバックエンドのサーバーも1人で作っていた。

私生活に関しては、名古屋に家族を残したままで、隔週東京と往復する生活をしていた。東京にいるときはカプセルホテルで泊まったが毎晩場所が変わるのが辛かった。千駄ヶ谷に住む太田さんと知り合うことができ、彼のアパートの一部屋をシェアして住まわせてもらった。古いアパートだが表参道にある会社に歩いて通っていた。家賃が安くできて大変感謝している。
2012年3月-2012年5月
iPhoneアプリを使ったインターネット学習支援システムを友人の事業をしようとしていて、それのサーバー側システム開発を手伝った。仕事の幅を広げようとして、青山プランニングアーツとの仕事を半分ずつにした。
結果は友人の事業が広がらず撤退することになった。

友人にも力及ばず悪いことをしたと思ったし、青山プランニングアーツとの関係もギクシャクし始めた
2014年10月-現在
青山プランニングアーツの社長と喧嘩して去る事になった。

以前青山プランニングアーツで仕事をしていた知人から紹介を受けて、ソウ・エクスペリエンスでRuby on Railsのエンジニアで仕事を始めることになった。
個人事業主(フリーランス)という立場で働いている。

Githubのプルリクエスト、rspecのテストプログラム、CircleCiの自動テスト, OpsWorksのデプロイなど、初めての開発プロセスを学ぶことができた。
若いエンジニアにいろいろ教えていただき、50の手習いをしながら開発している。

私生活に関しては、家族に問題があり、バラバラに住むことになった。今は子どもと離れ、東京都大田区で妻と2人で住んでいる。
これから
50歳になったときにセミリタイアの道を考えたことがあった。

フィリピンのボホールに妻の家がある。
少し行けば、ヤシがなっていてサンゴ礁の海がある。天国のようなところだ。
いままで貯めたお金で残りの余生を過ごすことも選択肢にあった。十分というわけではないが、年金入れればなんとかなるだろうと。コンピューターに関わる仕事をリモートでやりながらフローを稼ぎ、暇な時はKindleで本を読んで過ごすのがいいなと思っていた。

しかし妻の大反対にあってしまった。日本に方が治安や医療の面で住みやすいという。自分の故郷はときどき行くだけで十分と。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と言います。
穏やかで優しい人達で英語も通じるところだが、お金に関しては荒んだところがある。田舎でも泥棒や強盗がいる。私の叔父さんも殺されたし、妻も強盗にあったことがある。医療もお金を出せば何でもありだが、庶民には日本のような医療は受けられない。

これからはマイペースでコンピューター関係の仕事をしながら、人工知能の学びを少しずつでも進めていければと思います。一度は人工知能の研究者になることを断念しましたが、少しでも進めていきたいです。
研究しているときのことが脅迫されるように夢に出てくるんですよね。

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